NHK番組「できるかな」に出ていた、のっぽさん。
終始、無言でジェスチャーだったので、のっぽさんが最終回でしゃべったときは世間に衝撃が走りました。
今回は「できるかな」最終回で、のっぽさんがしゃべった動画と、番組終了後にのっぽさんがしていた活動にもご紹介します。
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【動画】しゃべらないのっぽさんができるかな最終回でしゃべった声!
のっぽさんが番組ではじめてしゃべったのは、「できるかな」最終回の1990年3月9日。
後続の番組「ともだちいっぱい」(後の「つくってあそぼ」)のわくわくさんとゴロリの紹介をする形でした。
「あ~あ、しゃべっちゃった」というセリフが、当時話題に。
こちらは、1分48秒のロングバージョン。
初めて聞いたのっぽさんの声は、はつらつとしていい声ですね。
この時のセリフは、すべてアドリブだったそうです。
のっぽさんは本当に言葉を発しないと思っていた子が多いのと思うので(私もそう思っていました)、当時見ていたこどもたちはびっくりしたのではないでしょうか。
「できるかな」はどんな番組?
「できるかな」は、1970年4月8日~1990年3月9日までNHK教育テレビで放送されていた、幼児向けの番組。
「でっきるかな でっきるかな はてはてふふ~ん、でっきるかな でっきるかな さてさてほほ~ん」の歌でおなじみですね。
番組は、言葉を話さないのっぽさん、鳴き声だけのゴン太くん、女性ナレーターが登場し、ジェスチャーで工作をしたり遊ぶという内容でした。
放送期間が20年という長さなので、「できるかな」を見て育ったという世代はかなり多いと思います。
実は、のっぽさんは不器用でセロテープがうまく使いこなせないため、スタッフから「セロテープののっぽさん」と呼ばれていたそうです。
また、工作で手を切ってしまい、血まみれになりながら演技を続けていたというエピソードも。
不器用でも一生懸命で、素敵ですよね!
のっぽさんは、「できるかな」の前身「なにしてあそぼう」(1966~1970年)に出演。
「できるかな」では、当初5人のお兄さんお姉さんが出ていましたが、のっぽさんを出してほしいという視聴者の要望により番組復帰になったそうです。
今となっては、のっぽさんのいない「できるかな」は、ちょっと想像できませんね!
のっぽさんの生い立ちとできるかな終了後の活動は?
のっぽさんは、1934年5月10日に京都の太秦で生まれます。(父親は俳優・柳妻麗三郎さん)
4歳から当時の東京市向島区で育ち、小学校4年生から高校2年生まで岐阜県羽島郡笠松町に疎開。
東京に戻り高校を卒業して、ダンサーとしてデビューするも、4年間ほど仕事がない時代もあったそうです。
その後、20代後半でNHKと縁があり、32歳の時、のっぽさん役に抜擢されます。
のっぽさんは、フジテレビ「ひらけ!ポンキッキ」の筆頭構成作家を10年続けるなど、放送作家としても活動。
「できるかな」終了後は、主に絵本・児童文学作家として活動し、50冊以上の作品があります。
のっぽさんは、こどものことを「小さい人」と呼び、常に敬意をもっていたそうです。
大人が読んでみたくなるような本も書かれていますね。
2005年12月からは、NHK『みんなのうた』で、初の短編ミュージカル映画形式の『グラスホッパー物語』で、自ら脚本・作詞・歌唱・振付を手掛けます。
2013年より、ひとり芝居「ノッポさんの宮沢賢治〜ぼくは賢治さんが大好き」を自ら演出・選曲しました。
多才ですごいと思いますし、こどものことを考えて一生懸命だったのだなと思います。
できるかな終了後も各方面で活躍していたのっぽさんは、多くの人の記憶に残る素敵な人でした。